【遅いインターネット】カリスマ教師とフェイク教師。

保健ネタ

2020年2月20日に幻冬舎から宇野常寛さんの新作「遅いインターネット」が発売された。この本は自分にとって思い入れの深い一冊になりそうである。

自分は当時心斎橋にあったスタンダードブックストアで雑誌PLANETSVol9でレゴで作られたザハ案と思われる国立競技場がかっこよすぎてジャケ買いした。

中身は「eスポーツ」「5Gを駆使したスポーツ観戦」「都市開発とオリンピック後の活用」というような今のトレンドになるような話題を2015年の時点で取り上げ、「こんな未来が来たら面白いだろうな」と今現在はこの特集につづく通過点であると思えるような強度の高い(陳腐化しない)内容である。古田敦也さん・岡田武史さん・有森裕子さんという日本スポーツ界のレジェンドの話はあるんだけど、正直どこかで聞いたことのある話で面白さに欠けるのも事実。でも、非体育会系の世界でトップを走るひとたちのオリンピックをこうしたら面白いんじゃないか?こういうことがスポーツの発展につながるんじゃないか?という想像力は体育教師をしている自分にとって色んなヒントを与えてくれた。何よりも“宇野さんスゲー”とノックアウトを食らった一冊である。

何が言いたいかというと、読んだ人にしかわからないかもしれないが“オリンピック破壊計画”という章で終わる「PLANETS9」と“オリンピック破壊計画”という序章で始まる「遅いインターネット」。心斎橋で偶然に「PLANETS9」と出会い、体育教師としての視野が広がりあらたなスタートが切れた自分にとって「遅いインターネット」はこの5年の自分自身を総括するような一冊になったということ。

今回はこの「遅いインターネット」を読んで自分なりに考えたこと、教師として生徒に伝えたいことなどを書いていきたいと思います。自分の読解力のなさから本文の趣旨とは違う話の展開になるかもしれませんが、ご容赦ください。(ぜひ、その際はご指摘を)

目次

  • “お笑い怪獣”明石家さんま
  • カリスマ教師とフェイク教師
  • イチローの引退会見
  • 体育文化の四象限

“お笑い怪獣“明石家さんま

明石家さんまは本が読めない。それはなぜなのかわかるだろうか。「活字が苦手」「国語が嫌い」とかいうことではない。

明石家さんまが本を読めない理由は、「なかなか読み進まないから」である。
本人が言うに「◯◯は14歳の時に・・・」という書き出しがあれば「俺の14歳のときは何があったかなあ」という風に物語から脱線し、自分の14歳の思い出を延々と考え続けてしまうそうだ。

「遅いインターネット」とは何か?
それは脊椎反射ですぐレスポンスをすることではない。インフルエンサーのツイートを引用リツイートして多くの“いいね“を稼ぐことではない。
本や映画、テレビ番組などの他者の物語を「自分の仕事に置き換えるとどういうことだろうか」と考えたり、ハイパーリンクを使って周辺知識を蓄えながら理解をより深く多角的にしていくことで自分の物語としていくことである。

つまり読書であれば、読むというよりも著者と会話する感覚に近いかもしれない。たとえば宇野さんのご両親が転勤族でその中で各地を転々としながら小中を過ごしたという話が出てきたとすれば「自分は幼稚園で山口県から大阪に引っ越してきて、、、」「自分が勤めている学校にはこんな境遇の生徒がいて、、、」という感じで”親の職場の変化に翻弄される子供“のことをじっくり考えてみる。これって面倒くさいと思うことかもしれないが、飲み会というのはこんな感じであるテーマに対してみんなで横に話題を広げつつ、ある一定のところで先に進むという感じで進行していくものではないか。それと同じだと思うし、それが飲み会の楽しいところだ。そう考えるとハードルは下がるように思うのだが皆さんはどうだろうか?

読書をすれば書き出しから横に横に話を広げてしまう明石家さんま。この「横に広げる」チカラこそがお笑い怪獣として今日もトップに君臨している要因なのではないか。「あっぱれさんま大先生」で小学生を「恋のから騒ぎ」で若い女性軍団、「さんまのお笑い向上委員会」で芸人軍団を、なんといっても「踊る!さんま御殿」で多様なジャンルの芸能人など、さまざまな番組で「何がきても、結局は自分の話に持っていく」「誰がきても、気づけばさんまのペース」「誰も被害者を出さずに、輝かせる」ように仕切ってきた。何もかも飲み込んでさんまの番組として成立させてしまう。まさに怪獣である。

遅くインターネットと付き合うことで私たちは何を目指すのか。
それは“発信する時代“だからこそ、他者の物語をそのまま発信するのではなく”自分の物語として発信する“ことを目指すべきではないか。
明石家さんまはお笑い怪獣なので「なんでもすぐに面白く」できるかもしれないが自分たちは違う。回り道してもいいので、目の前の文章と自分自身をじっくり会話しながら「横に広げ」、ある程度したら先に進めばいい。そうすれば遅いかもしれないが確実に自分の血肉になる日々が送れるはずである。

カリスマ教師とフェイク教師

リオネル・メッシをみなさんご存じだろうか。

泣く子も黙るサッカー界、スポーツ界のスーパースターだ。メッシは凄い。残している数字も凄ければ、チームの戦績もプレーの華麗さも何もかもが凄い。しかも長期離脱も記憶にないということはケガもしない。おそらく多くの人に同意を得ることができるのと思うので、ここでその凄さを映像やデータを張り付けて示すことはしない。

なぜメッシは凄いのか。それはサッカーがうまいから、チームが勝ちまくるからであるが、それだけではない。彼は欧州サッカーという世界最高峰のサッカーの舞台において誰よりも自由にプレーしているように見えるところに凄みがある。

「制限からの自由」

これは人間にとっての憧れである。サッカーは「足でボールを扱う」「ゴールが決められてる上に目の前にはディフェンダーにゴールキーパーまでいる」という自由にさせない制限がある。しかも欧州リーグともなればそのプレッシャーもハンパない。そのなかであんな小さい選手が左足中心でひらりひらりと相手をかわしズドンとゴールを決める。こんな快感他にあるだろうか。その姿に観客は魅了されるのである。

カリスマは制限があるから輝くことができる

こう考えるとメッシは欧州サッカーの舞台があるからこそ輝くことができる。その舞台が厳しければ厳しいほどその輝きが増すのである。ゴールが広くなり、敵が減り、プレスが弱くなればあれだけの輝きを放つことができないだろう。松井稼頭央のオールスター4盗塁は捕手が古田敦也だったから価値があるのと同じである。

カリスマ教師

カリスマ教師と呼べるような同僚が何人かいる。その先生は結果を出す。それだけでなく「生徒の意識を高める」「生徒がその教科に魅了される」「生徒の優先順位がその教科になってしまう」という共通項があり、自然と人が集まっていく。もうジェラシーしかない。

その先生は目の付け所と語り口に芸がある。そして「ふつうはこう考えられがちだけど・・・」的な感じで話が始まり、自分の世界に引き込んでいく。つまり一般的な考え(タイムラインの空気、世間の常識)を踏まえたうえで、オリジナルの理論を展開する。だから置いてけぼりを食らわない。そしてその切り口が気持ちいいので納得してしまう。

何が言いたいのかというとカリスマ教師というのは生徒の抱える「制限(不自由)」から「自由」になるための夢を抱かせてくれる存在なのではないかと思う。それは具体的な問題や単元に限らず生き方そのものにも当てはまる。「この人についていけば俺のこの人生なんとかできるかも」と深層心理で思わせてしまうエロい存在なのだ。ジェラシーしかない。

フェイク教師

対してフェイク教師である。これは「このままいけば俺は”品川庄司の品川”で終わるな」と怖くなったときにできた自分の中での単語である。何が言いたいかというと流行りに乗ってはじめるが、やり込む前にマウントをとったりしてくるあの感じだ。

つまりやることなすことマウントを取るためのアピールプレイ。承認欲求丸出しオジサンである。思春期までならいいけど、教師がそれではいけない。教師がマウントを取るとき、それは「自分は偽物です。本当の自信がありません。そこまでの努力をしてません」と宣言しているようなものだ。(これは怒鳴るとも少しちがう。危険なことをしたときにまず大きな声でやめさせることは必須である。そんなときに語りかけてはいけない。語りかけるのはその後の指導時である。)

生徒も馬鹿ではない。そんなフェイク野郎はすぐ見抜く。そしてスルーしつつSNSでやり玉にあげられるか、ほかの教師に聞こえるように悪口を言う。耳に入った教師も「まあ、そう思うのもムリないわな」という感じでスルー。そして飲み会のネタになる。という負のループが展開される。

フェイク教師の特徴は質問を2つか3つすればすぐわかる。自分の頭を使って話しているのではなく「誰かの良さそうな話」をコピー&ペーストで話しているだけなので突っ込まれたら何もない。本物は顕微鏡の解像度を上げれば上げるほどその奥に新しい世界が広がっている。ここが決定的に違う。

だからこそ「速いインターネット」ではなく「遅いインターネット」

フェイク教師の”痛さ”は先ほど説明した。これはタイムラインの空気を読んで「いいね」「リツイート」を稼ぐためにせかせか行動している人と言い換えることができる。

流れてきた情報をすぐ発信する。誰かが言ったことをコピペで自分のことのように発信してしまう。それで結果はでないと「ここではないどこか」を求めていく。そうした結果、ツイッターの自分の書き込みは引用リツイートだらけ。結局「いいね」「リツイート」してくれるのは、同じようにインスタント的に承認を満たしたい人同士になっている。ホリエモンのツイートは気になるけど「まじ大学行くやつの気が知れない。プログラミングなら・・・」というコメントの最後にホリエモンのユーチューブ動画貼り付けというテンプレートを何度見てきたことか。。。

そういう感じでホリエモンの言葉に乗っかってマウントをとるツイートは品川的であり、思考停止的な行動であり、所謂「速いインターネット」である。

そうではなくて、まず自分でやってみて自分の体験だけを書いてみる。SNSとの距離の取り方や扱い方はR25のインタビューで宇野さん自身が語っている

ひとつめの武器は、「人についてはSNSで書かない」と決めること。

「ホリエモンがいいか、悪いか」には一切触れずに、「ホリエモンの語ってるシェアリングエコノミーがどうか」についてだけ書いてみるようなイメージです。「人ではなく、モノやコトについて書く」という縛りのなかでTwitterをやってみてください。これだけで、全然変わりますから。

あと、ここで肝心なのが「人」には「自分」も含めてください。

宇野常寛が「SNSで人を叩く人はバカになる」と語る理由と、抜け出すための2つの“武器”|新R25 – シゴトも人生も、もっと楽しもう。「自分もインターネットも、ゆっくり変えていきましょう」r25.jp

こういうことを意識することで少しでも建設的なことがツイートできるようになりそうである。(自分も目が覚めました)

フェイクからの脱却

これは修行するしかないということが現在のところの答えである。師匠を見つけ、見よう見まねで体を動かしながら内省していく(ツイートでもいい)、その中から自分の型やフォームを身につけていく。

また、目の前の壁を「引き受けて考える」ことで乗り越えようとしていくことである。だれかに任せてブーたれるようでは何も身につかない。これは宮台真司さんから学んだことだが、とても大事な発想だ。

これらは時間がかかる。最短距離で進むことが不可能だ。進んでいても引き返すこともあるだろうし、蛇行することも休憩することもあると思う。でも、そんな感じで”遅く”なってもいいのではないか。色んな角度からものごとを見て、自分の頭で考えていくことがフェイクから脱却することにつながる。それが自分の中での「遅いインターネット」である。

イチローの引退会見

2019年3月にイチローが引退した。1995年に鮮烈にデビューしたイチローに心を奪われた自分は野球を始め、イチローの「一年365日のうち360日は練習をしている」という卒業文集をローモデルとして朝練を開始。現在まで朝練という名の朝活人生が始まった。

うすうす引退試合と予想し、有給を取得し東京へ出陣。中学の美術の授業で作った砂絵を片手に最後のイチローを拝んできた。

イチローは神戸の震災後に現れたスターであり「がんばろう神戸」の看板選手。アメリカに渡ったのは2001年で90年代のマグワイアとソーサを筆頭に筋肉ムキムキでホームランを量産するも、ステロイドが背景にあるとしてメジャーリーグの観客が冷め始めた時期に”新しいスタイル””これぞベースボール”としてアメリカを熱狂させたのがイチローだ。日米で活躍しただけでなく震災の復興のシンボルとして、ホームラン野球から走攻守で魅了する野球への回帰のシンボルとして存在感をしめしたとんでもない選手なのである。

そんな彼が引退会見でこんな言葉を残した

「頭を使わなくてもできてしまう野球、になりつつあるような・・」

この言葉の真意には「遅いインターネット」に通じる何かがあるではないかと感じている。

2010年代のマネーボール

00年代がおわり10年代に入ると「マネーボール」が浸透していく。データと統計によるフロント主導の野球だ。このころからスポーツ紙にも「GM(ゼネラルマネージャー)」という役職をよく聞くようになる。このフロント主導の野球が進むことで何が起きたか。現場の人間(監督やコーチも含む)が目の前の敵ではなくデータと向き合い、データに則って野球をやるようになった。監督の仕事が「ここは定石はバントだけど、○○は当たっているから打たせてみよう」とかいう長年の蓄積から導き出される感性ではなく「序盤にバントで攻めても効果的でない数字が出ているから打たせる」という言わば負けたときの言い訳のように聞こえる選択を行うようになっていく。

また、選手も自分の感性をフル活用して癖を見抜こうとしたり球種を読んだりする姿勢から生まれる「駆け引き」や自分にとって何が最適なのかということを考えながら練習に取り組むなかで生まれる「個性」がどんどん失われていく。データからはじきだされた確率の高い方法をその場面場面でベンチに指示されて忠実にこなす選手、「100マイル投げる」「シンプルに遠くに飛ばす」というマニュアルに沿って練習することで平均時速や打球速度が飛躍的に向上する一方、砲丸投げややり投げの種目を見ているように似たような投げ方や打ち方をした選手であふれかえるようになる。

ようは正解を追い、それを忠実に実行できたかどうかという野球になってしまった。こうなると強いチームが強い。金のあるチームが強い。弱いチームの才能ある選手は強いチームに移籍することを望むようになる。

ここにプロスポーツとしての魅力はどれだけあるのか?イチローはそこを指摘したかったのだと思う。

いまのメジャーリーガーは中学受験をする小学生に思えることがある。「最短で最高の結果を出す」ために塾を選び講師を選ぶ。そこの教えを忠実に実行することに集中し、無駄な感情は極力排除する。だから受験シーズンの3学期は小学校には登校しない生徒も多い。そして何かあれば「言ってた話と違うじゃないか」と塾などにクレームをつける。これらのことを親が全部やって子どもはただレールを走るだけ、隙間をみつけてゲームするだけ。という現状が少なからずある。それが中高一貫校の教員の実感だ。

ホリエモンのように自分が「これはいい」と思ったものを躊躇なく実行しトライ&エラーを繰り返す”他動力”ではなく、「ホリエモンが言ってるからイイ」とただ鵜呑みにしている人、ちょっとやってみて自己満足に浸る人(やってない人を下に見ることで自己評価を上げる人)に近い。

これは本書で語られる、じっくり自分のペースで考えながら、自分の考えを表現していくという「遅いインターネット」とは対極の、誰かの発言に馬乗りしてマウントを取るようにテンプレート的に発信してく「速いインターネット」と考えられる。

イチローのオリジナリティ

1986年生まれの自分は野茂英雄のメジャーリーグ挑戦とイチローのデビューを小学校低学年で目の当たりにした世代である。野球の出会いがトルネード投法と振り子打法というキャプテン翼もビックリの個性を爆発させて誰よりも成績を残していく。そして何より「未開の地を切り開く」という姿勢に多大な影響を受けた世代である。「自分のスタイルは自分で作り上げるもの」「自分の進む道は、自分で切り開いていくもの」という精神はこの2人と数年後に登場する中田英寿から学んだ体育会系30代前半は多いはず。その意思は自分の同い年でいうとダルビッシュ有、本田圭佑に象徴される形で受け継がれていると思う。

半径5メートルの日常を大切にする一方で、遠くのことや大きなものについても考える

ということを宇野常寛さんは仰っているが、イチローが歩んできた野球人生はその言葉そのものではないかと思う。誰よりもルーティーンを大事にし、トレーニングを欠かさず、コンディショニングを整え、いつでも最高のパフォーマンスを出せる準備をし続けてきた姿はメディアを通して多くの人が知っているところだ。イチローは誰よりも日常を大切にプライドをもって歩んできた。もちろん目の前だけに囚われるだけでなく、「あとに続く日本人のためにも僕が失敗するわけにはいかない」という発言や日本野球はこうあってほしいというコメントは至る所で出てくる。(メディアの質の悪さとオリックス消滅がなければ本気で日本復帰もあったと自分はいまでも思っている。)

アメリカでの日本人野手として成功することで後輩の道を作り、WBCの2連覇で日本野球の質の高さをアメリカ(世界とは言えない)に見せつける偉業は常に大きく物事をとらえ、責任を背負ってきたからこそで実現できたのではないかと思う。

考えることはできても才能のない自分はそもそもメジャーの舞台に立つこともできない。だからこそイチローに夢を託す。それを「じゃあ自分でやれよ」と言わずに背負いきったイチローだからこそ日米で尊敬される存在なのだと思う。

日本球界にために発信を惜しまないダルビッシュ有

ダルビッシュ有の経歴はたらたら書き連ねることはしないが、ダルビッシュ有はイチロー・野茂英雄の後継として日本の野球を前に進めた人物であることは間違いない。

日常をさらす

SNSで定期的に発信し、歯に衣着せぬ発言で炎上することもしばしば。でも、本音で語るからこその言葉でありダルビッシュ有のツイートを心待ちにしているファンも多い。ツイッターでは何といっても”お股ニキ”という野球マニアの素人を世に引っ張り出したことだろう。

お股ニキの批判を「じつはこんな事情があって・・・」とダルビッシュ有が対応したことから始まった関係が、試合前にアドバイスを求め、アドバイスし、それを試合で即修正して勝利するというどちらも天才としか思えないような展開が繰り広げられる。そこからあれよあれよと有名になりこの3月で3冊目の本の出版を控えている。

今ではプロ野球選手必読書とも言える存在だ。

こうしたことが実現するのは「相手をプロかどうかで判断しないという姿勢」「良さそうなことは試してみる」「自分なりの考えを発信する」ということを惜しまないからだろう。「どうせやったこともないクセに」というのは常にアンチから発せられ、ダルビッシュ有本人からは聞かれない。このフラットな姿勢こそ現代を生きるために必要な部分だと考えさせられる。

イチローや野茂英雄、中田英寿はSNS世代ではなかったため口を紡ぐしかなかった。ダルビッシュ有や本田圭佑にはSNSがあり、マスコミを介さず発信することができる。彼ら二人の世間とマスコミとの距離の取り方と進入角度があらたな風をスポーツ界に吹かせている。前の世代ができなかった「ほんとうはこういうことなんだ」という部分を惜しみなく発信してくれているのが今の世代なのだと思う。

ダルビッシュ有も本田圭佑も同い年ということでずっと意識してウォッチしてきたが、自分と戦い己を鍛え、目の前の敵と戦いながら、世間とも戦う姿勢は頭が下がる。彼らの言葉で指導者がどれだけ指導しやすくなったか言い出したらキリがない。

本田圭佑は日本だけにとどまらず世界でスクール運営など精力的に活動している。ダルビッシュ有も日本の野球界が良くなるような何かを模索中らしい。目の前のことと(プロ選手として)戦うと同時に、大きなもの(日本・世界)に還元していく。この姿勢がこの二人の魅力であり、本書で語られる”遅いインターネット”に通ずることである。日本と世界、オンラインとオフライン、プロとアマなどさまざまな橋を渡すこの二人が切り開いた世界にさらに大きな才能が開花するのだと思う。

何物にもなれそうもない自分に何ができるのだろうか

イチローにダルビッシュ有はスーパースターだ。自分は野球を志したがその実力は足元にも及ばない。しかもプロ野球選手がYouTubeで自分の技術を惜しみなく披露する時代に自分は何ができるのだろうか。

これは元サッカー日本代表の岡田監督の言葉がヒントになる。

「邪魔しない」ということ。

指導者として”教えてやっている”というスタンスが”指導させてもらってる”というスタンスに変わったところから彼の監督のキャリアは花が開いた。

前者は正解が一つで、それに選手を近づけようとしてしまうので、合わない選手、反発する選手がどうしても出てきてしまう。後者は選手の数だけ答えがあるので、監督は大変だが選手は自信をもって取り組むことができる。岡田監督は現役時代も日本代表なのでみんな下手に見えてしまう。だからマウントを取るようにしごいてやろうとしたのがうまくいかなかった要因と自己分析している。

自分は実力もないのにマウントをとろうとするなんて”なんとおこがましい”ということだ。湘北のヘッドコーチ安西先生に90年代全男子が心を奪われたことを忘れていた。安西先生は誰よりも生徒をリスペクトして指導していたじゃないか。気付けばみんなミッチーに感情移入してしまうのはマウントするクソ指導者のせいだったのか。それに今気が付くとは。。。

話がナイル川のように蛇行しているかもしれないが、イチローの警鐘・ダルビッシュが戦っているもの、岡田監督の転向、そして「遅いインターネット」に共通しているものは何か。

「思考停止になるな。」「こういうものだと決めつけるな。」ということ。

自分で考えて自分なりに表現する。それを身でもって証明するからスーパースターたる所以なのだ。何物でもない自分は詰めの赤を煎じて、安西先生のごとく生徒をリスペクトして指導にあたっていきたい。

体育文化の四象限

現代文化の四象限

これはこの「遅いインターネット」の中で語られる現代を見抜くための重要な”フレーム”だ。

四象限のうちまず一つ目の軸が「他人の物語一自分の物語」である。他人の物語とは映画やテレビといった画面の向こう側の物語のことである。自分の物語とは自分自身のこと、自分の行動そのものだ。映像の20世紀と呼ばれた時代は、「他者の物語」を消費してきた時代だ。その時代は徐々に変わっていき、他者の物語を消費しつつSNSにアップすることで自分の物語の一部にしていく時代に突入した。他人の物語から自分の物語へのシフトが行われてきたとも言えるのが現代だ。

もう一つの軸が「日常一非日常」である。ハレとケとも言っていい。かつては映画という非日常な娯楽として消費されていた時代から、テレビの出現によって日常的に楽しむ娯楽として消費されるようになった。また、インターネットがごく一部のマニアックなもので学校の情報の時間でしか扱わないような非日常だったものが、スマートフォンの普及により日常的にググる時代に突入した。

この「他人の物語一自分の物語」の軸と「日常一非日常」を掛け合わせて作った四象限がこちらである。

どどん

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「非日常一他人の物語」は映画に象徴されるもの。「日常一他人の物語」はテレビ。「非日常一自分の物語」はスマホを介して拡張された現実を自分の物語として消費していく。「日常一自分の物語」こそ現代に残された手つかずのフロンティアというのが宇野さんの主張である。このスライドの☆マークはメディアアプローチであり、我々に常に突きつけられるポピュリズムだ。メディアに右往左往することなく落ち着いてものごとを見据えて行動するためには[日常一自分の物語]にアプローチすることであると書かれている。

私たちが強く日常を生きていくために必要なことは、この四象限で物事を整理し客観的に読解していくことが重要だ。一時期の自分はテレビとは違う情報をネットやSNSで調べては「テレビは嘘だ」「みんな知らないけど俺を含めて少数の人しか知らないこと」という感じで悦に浸っていた。それはただ、インターネットポピュリズムに乗せられていただけの陰謀論者だ。いまでは〇イゾーもエンタメとして客観視して読めるようになってきた。

「日常一自分の物語」へのアプローチ。芯をとらえた感覚はないが、ボール球がわかるようになってきたおかげで、ぼんやりながらストライクゾーンがわかってきた。イチロー並みの日常の鍛錬でクリーンヒットからボテボテ内野安打に狙いすましたホームランなど”さまざまなヒット”が打てるようになりたいと思う。その過程こそ「遅いインターネット」である。

スポーツ文化の四象限

こういう政治的な部分ではうまく呑み込めない人も(自分も含めて)いるかもしれないのでスポーツで考えていきたい。

イチロー文化の四象限

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[非日常×他人]メジャーリーガーのイチローは触れることのできぬ画面の向こう側の存在だ。[日常×他人]オリックスのイチローはテレビでも見れるが、球場に見に行くことができる。[非日常×自分]あのメジャーリーガーイチローが東京ドームに帰ってくる!!と東京に出向く自分の話。球場に行けなかった人も「俺にとってのイチローは、、、」と誰かと語りながらテレビを観戦した人は多いはず。[日常×自分]イチローが取り組んでいた初動負荷トレーニングができる施設が地元にあるという奇跡。イチローに感化され日常的に取り組むイチロー的なライフスタイルを送る自分の話。

野球文化の四象限

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[非日常×他人]数年に一度行われる国際大会。多くの人にとっては無縁の世界。[日常×他人]たびたび「ごっつええ感じ」がカットされた劇空間プロ野球のようなテレビ中継。[非日常×自分]草野球や少年野球にとっての大会でチームに所属すれば出場できる機会がある。[日常×自分]日々の練習やゲームなど。

ランニング文化の四象限

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[非日常×他人]4年に1度のオリンピック。箱根駅伝。選ばれしものの世界[非日常×自分]東京マラソンなどのアマチュアでも参加可能な大会[日常×他人]テレビ番組で走るランナー[日常×自分]ライフスタイルとして走ることを習慣化しているひと

ざっとこんなところだろうか。正直、野球とサッカーとランニングでないと簡単に作れないというのが日本スポーツの現状だ。

4つをしっかり押さえていることがその競技の文化を支え、発展させることにつながるのだと思う。とくに左上のメディア露出は重要でお笑い芸人とうまく絡むことで一般人に認知され、ファンが増えるという構図は2020東京に向けてつぎつぎと始まったスポーツバラエティを観て感じるところだ。なんでカメラの前でお笑い芸人と話せないといけないんだという批判はごもっともなんだが、ここではその話はしないとする。

学校スポーツ文化の四像限

体育教師の自分としては、この四像限のフレームを使って体育というものの立ち位置と取り組むべきことを整理していきたいと思う。

まず学校スポーツ文化の四像限を作り体育の立ち位置を確認したい。

体育の四像限

[非日常×他人][日常×他人]は思いつかなかった。(だれか教えてください。)学校の場合、生徒自身が動くことが中心だと思う。[非日常×自分]は体育祭であり、球技大会だ。年一回のお祭りごとで盛り上がる行事だ。[日常×自分]はクラブ活動であり、昼休みなどで校庭で行うサッカーやキャッチボール、バレーのトスなどがこれに当たる。自分の意志で参加し、自分のやりたいことをやる。

体育はその中間であるというのが自分の見解だ。時間割に組み込まれていることで日常的に行うものではあるがシステムでありやりたくなくてもやらなければいけないものである。その点でクラブ活動などとは違う。そのメリットとしては今まで体験したことのないスポーツに触れられるということ、やってみてはじめてわかる感覚を得られることもあるということ、否が応でも運動することで体が強くなる可能性があるということだ。なので好きな子もいれば嫌いな子もいる。他教科と違うのは漫画を描いたり、内職したりできないという点であろう。座っていれば進むことができる他教科とは違い、体育は全員がだいたい同じことをしてないと危険が及ぶ可能性もある。まあ、生徒にとっても教員にとってもストレスになるときもあるのだが、それは体育教師の甘え。とにかく体育というのはこのような立ち位置にいるということだ。

そこで体育の役割は何なのか?それは体育を通してライフスタイルにスポーツを取り入れる人を増やすこと。つまりは[日常×自分]の世界にスポーツを取り入れる仕掛けを隠し味として授業を行うことだ。

スポーツをライフスタイルに根付かせる体育①

「桐島部活やめるってよ」的にはバレーボール部と放課後バスケが[日常×自分]であり、名演技(?)が光るサッカーの授業が体育だ。青春というのは、あの放課後バスケや「時かけ」の放課後キャッチボールのような世界であるというのが自分の見解で、そこに多くの需要があると思っている。つまり「勝利を求めるのでもない」「技術を極めるためでもない」「男女の壁もない」というようなスポーツライフを送ることができるようにすることが一つ目の目標である。

大学時代は普通のバレーボールをもって白浜にいき、「一緒にバレーボールしようや」といって色んな女の子とバレーボールをしたことを思い出す。「10回目標にしよう」とかミスをアクロバティックな動きと言葉でフォローしつつ、みんなで盛り上がる。ボールを介して仲良くなる。そして去る。その時に声をかけてくれたら番ゲするのが自分たちの砂浜スタイルだ。

何が言いたいかというと、細かいルールを教えるのではなく”将来バーベキューや砂浜に行ったときに楽しめるスキル”を授けるのが大事なんじゃないか。そうなったときに、ソフトボールでは打撃も大事だけど絶対キャッチボールは教えといたほうがいいよなと思えるし、バレーでは何といってもトスであり継続するためのスキルだ。そういった想像力をもって授業に臨めば自然と軍隊式の授業はなくなるし「みんなで楽しむにはどうしたらいいのか」という発想で各グループで柔軟にルールを調整することもオッケーだ。実際にバスケットボールの授業では、バスケ部1点で素人2点というハンデをつけたり、ガチコートとレクコートの2面にわけて自分で選択させレクコートではリングに当たれば1点という打てば得点できそうな気がする設定で行っている。一つの正しいことではなく、その場のその人たちに会う適切なルール設定を行うことで卒業後にもみんなでスポーツを楽しめるようになってほしい。

スポーツをライフスタイルに根付かせる体育②

自分は宇野常寛さんのオンラインサロンに入会している。その宇野さんの番組に観覧させていただく機会があった。

まあかなりのショックをうけて帰ることになったのだが、それは「全然アカンやん」という自分の情けなさだ。

金言をいろいろと頂き、「なんであんなに集団で動くものばっかなの!?」と言われ、ギクッとした。運動好きのマウントを黙認しないといけない構造なっている、もしくはそのマウントをやめさせるためラ王のごとくすべてを牛耳る存在として授業をおこなうことでしか授業ができないのではないかと。。。

そこで集団スポーツ、スポーツ好きによるマウントの権化”サッカー”でなるべく個人スキルを自分のペースで磨く時間を割いた。個人スキルとは「リフティング」「シュート(ミニゴールの前にさらに小さいネットを置いて空いたところを狙う)」「ドリブル(コーンをジグザグ)」の3つで、何をやってもよい。やってもよい目指したのは授業のスポッチャ化である。授業はクラスを個人スキル半分とゲーム半分に分ける。これを入れえて終わり。生徒も混乱しない。あとは徹底してアドバイザーとバランサーに回り出来ない生徒と会話しながらボールを蹴り、うまい生徒と勝負したり、危ない動きには訂正をする。ゲームは勝手にやってるのでオッケー。

こんな感じで3学期を終えた。今までにない手ごたえがあり、今後もスポッチャ化を目指し授業づくりを進めたいと思う。【体育の授業】2019年度3学期 高校1年男子サッカー指導案 – hokentaiiku246.bloghokentaiiku.com

スポーツをライフスタイルに根付かせる体育③

持久走ではなく「走るひと」

この記事に書いてあることを3学期に取り組んだ。校庭をぐるぐる走るのではなく、自分で走る時間と場所を作り、地元を走る。自分と街を走るという行為であらたな視点で見つめなおす機会を作ることが目的だ。

結果的に60人ほど(学年の4~5人に1人)は取り組んでくれた。中にはこれをきっかけにランニングを始めたという生徒もいて、初めての試みとしてはうまくいったかなと思っている。

今後やっていきたい取り組み

体育は[日常×自分]に引き込むことが目標だ。

その取り組みとして来年度以降やっていきたいことを列挙するとこんな感じだ。

球技大会でeスポーツ

これは開催直前まできてコロナショックにより中止。来年度にお預けになった。

保健×ラジオ

保健の授業をラジオ的に行う試みだ。特集コーナーが保健の内容で、アンケートコーナーやリクエストコーナーなどを充実させたい。そうすることで自分のこととして保健の授業を聞いてもらえるようにしたい。(将来の夢はラジオパーソナリティというのもある)

自分の世界を四象限にしてみよう

体育の四像限

今回、この四象限を作ったことでかなり自分のやるべきことが整理された感じがする。皆さんも自分の職業にあわせて作ってみればやるべきことが見えてくるかもしれないのでお勧めです。

「遅いインターネット」は活動であり、本はマニュフェスト。何回も再読して自分なりの表現をしていきたいと思う。

皆さんも興味があればぜひご一読ください。

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